たどぽうる傑作選



かつて本庄混声合唱団のメンバーは、若さの限り活発に跳ね回っていた。
常に何かを求め、大いに飲み、夜を徹して語り、泣き、笑い、青春を謳歌していた。
機関誌『たどぽうる』は過ぎ去りし青春の象徴。二度と戻れぬ遠い日へのオマージュ。
若さ故の青臭さはあっても、それ故にこそ溌溂として壮大な気宇に満ち溢れている。
今に残された資料を一部分ではあるが、ここに公開し、我等の活動が単なる気まぐれや
好奇心からではなく、常に社会と向かい合い、仲間を信じ、真実を求め続けていた事実を
今さらながら確認するよすがになればこれにまさる幸いはない。

なお、筆者諸氏から掲載の許可を取りつけべきところ、水臭いと怒られそうなので敢えて省略しました。
え、「若い頃書いたから未完成で今の自分と違う」って? だから価値があるのでしょう。
失礼の段、重々にお詫び申し上げますが、多分苦情は出てこないものと信じております。
(これは決してキョウカツではありませんゾ)



たどぽうる7号表紙

たどぽうる第七号 1967年7月23日刊



 
巻 頭 言

我々は、世界を人間にかえし、人間を自分自身に返そうとするものである。
自由で活気ある精神なくしては、人間は獣類に等しい。
我々は、人間に、その芸術、文学、科学、そして考え、かつ感じることの独立性をとりもどそうとするものである。
人間は、思考なき奴隷のように教会のドグマに縛られてはならない。

ミケランジェロの生涯「華麗なる激情」より

  生活のうた(23歳編)  バス・岩田勝義

 《プロローグ》

未開地のパイオニアとして「現代の芸術」それを無理を承知で究明しようとする、無学・無能力なぼくらのドン・キホ−テ的試行も、その出発点をなすものは、あくまで ぼくらをとりかこみ、現在的に行われている、まずしい運動の現実である。

 その一、浮気の旅

背信と混迷、「芸術と生活の悲しい別居」。ぼくらはそこに生き、そこに現在の運動がある。その中でぼくらのまずもっての使命は、「高尚な趣味」としての音楽を、ぼくらの生活している場、渾沌とした現実に、こずきおろすことである。
しかる後、時間的にも、精神的にも、物質的にも、貧乏なぼくらの状況の中から、一体、何を新しく生み出していったら良いのか、真剣に考えるべきである。単に与えられるものでなく、ぼくらにって、より現実的、より確かなものを追求していくべきである。
悲しい別居の続く限り、ぼくらの浮気は、はじまり、そして続く。
 ○強者は、運命とのたたかいの中に、うたう!

 そのニ、ゴマスリのうた

荒ばくとした本庄市、文化・文明の谷間、本庄市。「カミナリが多いのでこわいワッ」とね郊外に住む北海道産の女性の感想にある本庄市、愛しがたい本庄市よ! 私がエラくなったら、教育のこと、文化のこと、みんな解決しよう。そして、赤城山にも風よけをつくり、暖かい豊かな本庄市をつくろう。本庄混声もがんばってやっているから、三千人位入れる小ホールもつくってやろう。
だが待て! 私の月給では、飲まず食わず一生働いても、百五十円以上不足してしまう。非常に残念だが、私をたよりにしてくれるな。
 夜風が冷たかあ ありませんか?

 その三 アダムとイブのヘソ

神は、粘土で、己の姿に似せ人間をつくったという。今日、お湯を注いで簡易食をつくるのと同じ方法であったかどうか知る術はない。
又、それを信じるか否かは個人の自由である。が、信じがたい事実はヘソである。

 その四、むかし・むかし

労働と言う人間の行為が、他の動物から人間を区別し、人間を人間として形づくったと言われる。大昔のことである。自然史の長い過程(宇宙的自然史・生物的自然史・人間的自然史)の中で、人間がいかにして地球上に生み出され、今日のような人間になり得たかは興味深い問題である。
イリンという人の書いた「人間の歴史」という本は、ぼくらの大昔の祖先の生活を知るには、楽しい本である。

 その五、別れ

他の生物から人間を区別した「労働の絶対性」、それがして初めて人間を目的意識的存在・主体たらしめる。対象物を自己の対象として意識し、働きかける存在ということは、他の生物の即物性からは、ハッキリ区別されなければならない。

 その六、肉体と精神

労働が、人間の意識を生み出したと同時に、芸術といわれるものも、労働から分化した形で発展をとげる。それは、人間生活の物質的生産とともに変化し発展する。「肉体労働から切り離された精神労働」、それが一般に、あらゆるイデオロギーが発生する基礎といわれる。芸術家と呼ばれる職業の人たちも、そこから生み出される。彼等は一般大衆から切り離され、疎外され、各々の時代の特性、階級的な特性を刻まれる。

 その七、天上のロマンス

ぼくらは今、さまざまな現在的な制約の中に生きている。そしてぼくらは、さまざまな検証の中にいる。あるものは現実からの逃避的傾向を持ち、あるものは奔放な空想や幻想といったものが表現されていたり、又、主観的な印象・象徴といったものが重んじられているもの。さては、性の問題が芸術創造のための中心的な課題であるといわんばかりの錯誤にはまりこんだものもある。

 その八、再会

それらは「芸術のための芸術」と言われる。至上主義的傾向を持ち、商品として取り引きの対象になる。ある意味では、それらが今日の主導的なものであると思うが、生き生きとした情感・願望・真実や、精神的リアリティには乏しい。しいたげられた者の苦しみ・悩み、ほとばしる人間生命、ぼくらが触れ、見聞きする中で、ぼくら自身に肉迫するような感激を与える。そんなものが欲しい。

 その九、青春

「人間は長く児童であることを余儀なくされた存在」と言った人がある。又、「習性の束」とも言われる。「従順でどんなことにでも順応してしまう」とも言われる。けだし「環境によってつくられる人間は、その環境もまたつくりかえられる」ことをかみしめるべきである。

 《エピローグ》

もの言わぬ“永遠の若さ”小便小僧の限界を、ぼくらは主張し、行動を通して訴える。
                                   1967年7月記



《人物紹介》有眼い人(ゆうめいじん) 中沢章(23歳)

 
身長高くなく、色白くない。いわゆる中肉中背、大和民族の標準に属す。いや、標準以下かな。ひげ面で熊を思わせる有眼い人・挿絵男。利根川でジャンボリーの際本混に保護される。つぶらな印象的な可愛い瞳(見る人によっては、どこにあるのか分らないと言う)の輝きは顔とのアンバランスの美として有名。本庄市郊外にプライベートな生活を楽しむべくアジトを構えるが、彼にとってプライベートなどという贅沢なものはない。彼がアジトにいなくとも彼の部屋は誰かしら騒いでいる事が常である。彼が一人で居る時は男ヤモメと思わせる。狭い部屋に不釣り合いなダブルベッドに一人で寝起きし、朝もそもそのと這い出して実家に飯を食いに行く。「愚妻は国に帰っていてもてなしは出来ない」と人にはミエを言うが、愚妻とかいう人を見た者はいまだに誰一人としていない。要は早く彼にヨメさんでも世話せねばということが今後の合唱団が抱え込んだ大きなカベというか課題である。(岩田記す)



   
 マンション日記  バリトン・中沢章

 はじめに中沢マンションなるものを説明しておこう。マンションとは竹並建設第二作業場のあるアパートである。独身者は入居できないことになっているが、近々ヨメさんをもらうから、なんて社長にいつわって入居したのは一年前。
 下は物置、作業場に囲まれたこのアパートも住めば都である。夜になると窓からは淡い月の光がさしこみ、窓からのぞけば夜汽車が見える。部屋の中は自分の好きなように飾りこみ、部屋の小さいわりに大きなステレオとか、一人で居るのにダブルベッドとか、住んでいる人間とかなりアンバランスな部屋である…と誰かが言っとった。(まだ来てない人は一度だけ来てみるのも悪くないと思う)俺が家を出てアパートを借りた理由は、プライベートな生活がしたかったからである。(一部の人たちは家を追い出されたんだろうと言っているがねこれはウソ)
 ところがプライベートなんてとんでもない。団の連中が昼夜を問わず誰かしら必ず上がりこんでいる。今では合唱団の宿泊所として広く団員に利用されちゃっていることは御承知の通り。
《団のサムライ達に引っ越し祝いにダブルベッド用のシーツをもらった。そのシーツというのが、みんなの寄書きがしてある問題の品。洗って干す場所に困ったことを報告しておこう。》

○月○日 引っ越して三ケ月たった。一人暮らしの侘びしさが身にしみてきた。そこで俺は考えた。何か動物を飼おう小鳥がいい。そこでカナリヤを一羽買った。朝、あのいやな目ざまし時計に起こされるより、さわやかな朝の空気の中でさえずるカナリヤの声で起きよう。ところが、アイデアとしてはとてもよかったが、実際問題としてダメだった。ちっともカナリヤが鳴かないと思っていたら、隣の住人が「中沢さん、このカナリヤ、朝よく鳴きますね」ときた。大笑い。でも、このカナリヤ、ドロボウネコにやられちまった。今は十姉妹が六羽、俺と共同生活をしている。

○月○日 練習の帰りに雨の中でキャンキャン泣いている小犬を拾った。可哀相なので部屋に入れてやり、隣の店でソーセージを買って食べさせた。それから犬は住みついた。名前はチビ、俺はここで食事をしていないので、隣の人に飼ってもらうことにした。冬の寒い日に体を洗ってやったらカゼをひいたり、俺のステテコをボロボロにしたり、かなりしまらない犬だったが可愛かった。ところが一ケ月前、交通事故のため若くしてこの世を去った。安らかに眠れ。

○月○日 今夜も団のサムライ達が集まって大いにメンタった。これからの団の進むべき道、団員のあり方、人生論、恋愛論からベトナム問題まで、気がついたら十二時をまわってた。めんどくさいからみんなで泊まっちまおうてんで全員宿泊。合計七人のサムライ達は、ベッドに四人、下のふとんに三人、ベッドの他一組しかない夜具に三人もぐりこむ。はじめはアルコールのため、さほど寒くないが、アルコールがさめ、夜がふけてくると寒さが美にしみてきた。夜中に誰かが俺を起こした。「中沢さん、寒くて寝られないんだけど何かかけるものないかい?」「何?かけるもの? そんなら洋服ダンスの中にハンガーがあるさ」
 プライベートな生活はあまりないけど、これでいいと思う。人間一人きりで部屋の中に閉じこもっているとろくなことを考えなくなる。それから団の活動に俺の部屋が一役かっていて、かなりプラスになっていることを自負してい
る。

最後に団のサムライ達の寝ぐせを内緒で教えてやりましょう。
 岩田勝義 この男は一番寝ぞうが悪い。だからいつもカベぎわに寝かせる。それから寝言もひどい。寝ぼけて歌を歌う。
 小松亮正 この男は歯ぎしりがひどい。それから夜中に誰にでも抱きつくクセがある。(要注意)
 平賀 守 この男ぐらい寝つきの悪い男を俺は見たことがない。皆が寝てからレコードを聞く癖がある。
 千代田光弘 朝寝坊日本一。
 大沢孝行 俺は背が高いからふとんから足が出ちゃうと言って、いつもクツ下をはいてねて、俺にいやがらせをするイジワルな男。
 高柳昭男 この男は実に静かに寝る。いびきもかかんし寝ぞうもいい。あまり静かなので死んじゃったのかと心配してムナ毛を引っ張ったらイテテテッ、俺の大事なムナ毛を抜くなと怒られた。生きてた生きてた!
 中沢 章 はやねはやおき元気な子、この男は育ちが良いので寝ぞうも良い。え? 自分の寝てる姿がわかるかって? いいから、いいから。     〈今日はここまで〉



    
登山家と山と血の流れ  テノール・千代田光弘

 山を見て私達はそれぞれに感じ方が違う。ある人は孤独を感じ、ある人は力強い自然を感じ、又ある人はただ美しいと感じるかも知れない。画家が見るとしたら、その時々の色の変化、その容形と、いろいろな角度からの見方ができるだろう。山はただそこにあるだけなのに。
 人の心は自分と云うものを対象とし関連づけて眺めるのだろう。悲しい時、それはさびしげに見え、嬉しい時には雄大に高々と見えてくる。山には血の流れもない。大きな変化もないのに。
 登山家が山を目の前にした時、そこには未来があり人生がある。希望があり、夢が待っているのだろう。登山家は山に何かを求めている。燃えるような望みと自己への疑問と、自然との対話その他種々、登山家達はそれぞれに何かを求めて山を登り始めるのだろう。ただ漠然と生きている人にとっては、そこに山があるとしか感じられないそんな山を。
 ほんとうに山が好きな人達は、それが最大の友人であり、話し相手であり、恋人であるのだろう。そして、やさしい母であるようにも思えるのだろう。《私達が合唱を心のよりどころとするのと同じように》
 登山家にとって山とは自己との対話であろう。戦いであろう。何の答えもくれない山との触れ合いであろう。もしかしたら、この世の中の人間関係から逃れたい気持ちからかも知れない。登山家にとっては山が自分であり、自分と同じ心を持った人間なのかも知れない。登山家の生活は、血の流れを嫌った力強さかも、又人の心の暖かさを忘れた貧しさかも…。私達はもっと身近に豊かで色とりどりの血の流れを知っているはずだ。喜びを共に喜び、苦しみ悲しみを慰め合える真っ赤な血の流れの鼓動を知っているはずだ。私は山の種々の魅力を振り切っても、豊かで複雑で、求めあえる血の流れの中に自分の身を置きたいと思う。登山家が山を見るよりももっと厳しく、広く、鋭く、この流れを見つめて生きたい。心と心の触れ合う暖かさと冷たさを感じながら自分を見つめ反省し、ゆずり合い助け合って。
 自分を見失う時、幻滅を感じた時、ほんとうに救おうとするものは山でもない、海でもない、歌でもない、ましてお金でもない。赤い血の流れた心と心の触れ合いだと思う。私達は登山家であってはならない。求め合う心と心の結びつきの上に合唱があり、本混があると思っているのだが…。





『たどぽうる』第11号1969年1月刊

巻頭言 : 可能性 芸術 創造 進歩



 
芸術についての一考察 テノール・武井 

 ここでは芸術の総合的な内容を述べるのではない。そのような事を私が出来得る筈が無いし、仮に試みたとしても紙面が足らなくなるだろう。唯、混声合唱団に入って、私がどういう風に芸術的なものをとらえて、又確認してきたかを考えて行くと、やはり感ずるところがある。
 人間が幸福感や充足感を味わうのはどのような場合だろうか。今ここに一人の母親がいたとする。彼女にとって子供を抱いて頬ずりする時に彼女の存在の確実さを無意識のうちに感じとっていないだろうか。子供はその時彼女の所有物では無く彼女と同格に在る。
 同じようなことを合唱の中に見出すことができる。今ここに世界に名高い合唱曲の楽譜があるとしよう。この楽譜が店頭に並んでいる場合に、この楽譜に存在的な価値を見出し、更に私達が充足感を味わうことが可能だろうか。勿論、私達が以前に歌ったり聞いたりして感銘を受けた経験があるのなら話は少々変わってくるだろうが、そういったことがない限り、私達にとってこの楽譜は実存しないと言える。さて私達がその楽譜を買ってきて練習を始めるとする。常日頃の発声練習がその曲のために一層為され、次に私達なりに吸収し表現しようとする。やがて暗譜もできるようになり演奏会となる。その場合、私達は楽譜を持っているとは言わないだろうが、他方、楽譜がないという表現も適当ではない。私達が合唱しながら感銘を受けるのは、又聴衆が聞きながら感銘するのは、楽譜の音が良いからではなく、歌手の声そのものが良いからでもない。私達がまさにその曲を歌っているその光景(状態)が私達の心に迫ってくるからではないだろうか。なぜなら、私達の努力がそこに開花し、私達の心が声に表現されるからだ。私達は練習をしながらその曲想をどのように受け取り、その歌詞にどれだけ疑問を投げ、どれだけ答えただろうか。このようにして歌うことに自己の充足性を見出し得る人の数は少ないかも知れないが、とにかくなんらかの形で私達の可能性を感じることができるのは、私達がその曲と関係しており、そこに存在的価値、すなわち私達の実存が意識されるからだと思う。そこに私はあの“星の王子さまとバラの関係”が成り立つ素地があると考える理由を見出す。
 さて、このような考察が必然的に必然的に宗教的領域と結び付きそうだとお気付きの方もあるだろうが、それは後日発表させていただくとして先を続ける。
 この考察は描くパートの人間関係や、指揮者と合唱団、演奏者と聴衆の間の関係にも適用される。児玉先生が「どんな名曲がステレオから鳴っていても誰もその部屋で聞いている者がいないなら、それは単なる音に過ぎない」とよく言われるが、これも前記の考察からその理由がわかっていただけると思う。


以下、順不同で復刻。乞御期待 

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